成田空港鉄道物語


成田空港・・・本名を新東京国際空港といいますが、いろいろ波乱の上で開港した話は結構有名かと思われます。でも、波乱だったのは開港だけではなく、近辺の鉄道会社も結構巻き込んでます。

1.うまい話

その昔、東京向けの新しい国際空港を成田に作ることになった時に、最初に喜んだのが京成電鉄でした。そりゃそうですよねぇ。もともと成田山の参拝客向けに成田に鉄道を敷いていたのが、棚からぼた餅ではすまされないほどの利益が転がってきたのですから。で、気合が入っちゃって、スカイライナー用のAE形を先走って作っちゃいました

一方、国鉄も国鉄でおいしい話ということで、東海道新幹線で成功した新幹線方式で成田まで新線を作ろうと、東北・上越新幹線並みに張り切っていました。

2.列車はあるのに・・・

しか〜し、両社が期待した空港自体のオープンが大幅に遅れることになります。原因は過激な反対派の存在。そりゃ空港ってのはうるさいし、いきなり未数値の数の人が押し寄せることになると、町としてはやな感じですよねぇ。でも過激すぎない?

で、その影響で空港のオープンが遅れ、先走って列車を作っちゃった京成は、しょうがないからシーズンになると成田山特急みたいな感じで使ってたようです。

が、しかし、その京成にも反対派の魔の手が・・・。用途は違えど、もともと空港輸送用に作ったAE形ですので、反対派の手によって焼き討ちに会いました。ひでぇよなぁ。2両ほど消えていったようです。使う前から。

そのころ国鉄はというと、成田新幹線として着工したのはいいけど、その後に勃発したオイルショックの影響で工事がストップ。さらにその後も沿線住民から「せっかく新線作るのに途中に駅がないのでは意味がない」と、線路を作るのを許してもらえなかったようです。そりゃそうだ。途中駅は千葉ニュータウンしか作る気は無かったそうなので。いかにも強引な国鉄ですが、さすがにこれには引き、空港下の駅の路盤と、東京駅地下の駅の路盤を作った時点で工事自体が中止になりました。

3.空港はオープンしたけど・・・

結局、反対派の行動もむなしく昭和52年に新東京国際空港がオープン。同時に京成の空港輸送がスタートしました。使用車両はもちろんAE形でした。
しかし、京成が設けた「成田空港」駅ですが、実際には空港からは距離があり、結局バスに乗り換えざるを得なくなりました。なら最初からバスで行こうぜ♪ということで、バスが非常に混雑してしまい、挙句の果てには世界の大都市でも類を見ないほどの不便な空港になってしまいました。

というわけで京成のスカイライナーはガラガラだったようです。

国鉄は・・・成田新幹線が作れなかったということか、空港輸送には消極的になり、成田を通る特急「あやめ」「すいごう」あたりを成田に停車させる程度でした。

4.成田高速鉄道の誕生

その後しばらくはこの状態が続きました。が、ある日、あのイシハラのシンちゃんが空港の視察をしていたとき、例のあれを見てしまったんですね・・・。成田新幹線として作られた空港下のスペースを・・・。

それをみたシンタローさんが言った一言で、そこに鉄道を敷いてターミナル直下まで鉄道でアクセスすることになりました。が、最初はJRだけを引かせるつもりだったようです。さすがに京成が怒っちゃって、結局2社が1本づつ使うようになりました。それがあの成田空港駅です。

で、今まで京成が使ってた名ばかりの「成田空港」駅は、現在は東成田となっています。

そしてその頃にJR東がつくったのが253系「成田エクスプレス」です。こういう事情があるのでけっこう守りの体制で出た感じです。納車の時も警備員を導入してたというあたりは、さすがに京成のAE形みたいな事態は避けたかったんでしょうね。

京成も京成で、新型AE形を作りまして、現在はみんなこれになっています。

というわけで、成田空港もやっと鉄道でアクセスができるようになり、少しは便利になりました。1991年のことです。割と最近の話です。

で、2社で乗り入れてるので競争が起こり、どんどん発展する・・・と思ったんですが、そうでもないようですね。速度はJRのほうが速いですが値段の差がはっきりしすぎていますし・・・。

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というわけで、現在の成田空港輸送はこうして成り立ったのです。いかに反対派の行動が過激だったか・・・。当時の学生は元気がありましたねぇ。中途半端ですが終わりにします。

蛇足ですが、成田新幹線として東京駅地下に作った路盤は、京葉線東京駅乗り入れに役立っています。


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一言コラム:大宮の人が成田空港へ行くときは日暮里でスカイライナーに乗り換える。

"旅始駅〜鉄道旅行のターミナル〜"was written by 209-0