今回は、文にまとまりがなく、少々読みずらいかも知れません。あと、一部に憶測の部分が多々あり、確証が持てないところがあります。ここに書かれたことが真実とは限りませんので絶対に各鉄道会社への問い合わせはしないでください。このページに限ったことではありませんが。(こんな文を作る方が悪いって?まぁとりあえずご覧ください。) |
高崎・上信越線とは、高崎線・上越線・信越線のことで、ともに関東〜新潟、さらには日本海側を結ぶ線として活躍した路線でした。かつては高崎線→信越線、上越線開業後は高崎線→上越線と、役割的にはほぼ同じ路線だったのになぜ名称統一をしなかったのでしょうか?まずは軽く歴史面から探ってまいりましょう。 |
高崎線は、1883年に日本鉄道によって上野〜熊谷間が開通しました。その後1884年に前橋まで開通しました。そして1909年国鉄名称設定で上野〜高崎が高崎線となりました。 |
信越本線のルーツは、日本に鉄道が走る前の計画段階で東海道本線がまだ中山道経由だったとき、その中山道経由線として先行して作られた高崎〜軽井沢間と、港からの資材運送のために直江津〜軽井沢間に作られた線路がルーツで、中山道経由が東海道経由になった後も線路は残りました。全通は1893年のことでした。 一方、直江津〜新潟は私鉄の北越鉄道がその前身で、その後1907年に官設鉄道(のちの国鉄)に買収されました。 そしてあらかじめ作ったあった高崎〜直江津間と、買収した直江津〜新潟を合体させ、高崎〜新潟間が1909年に信越線(のちに信越本線)と名づけられました。 |
上越線が出来た背景には信越本線がかかわります。当時関東〜新潟間の輸送は信越本線しかなく、かなり遠回りだったのでショートカットの目的で上越線が作られました。 |
・・・というわけで本題に移ります。 かつて信越本線(以下信越線)と名の付いた時は名前の通りの信州(長野)〜越後(新潟)を結ぶほかに、遠回りではありましたが関越間の輸送のメインでもありました。このときに高崎線と信越線を同じ名称にしておけばよかったのになぜそれをしなかったのでしょう。 また、その後ショートカットの目的で上越線が作られました。これによって関東〜新潟間がほぼ直線で結ばれることになり、関越間の輸送のメインはこちらに移り変わりました。 では、なぜこのときに名称統一をしなかったのでしょう。沿線の人の影響でもなさそうですし・・・。 |
それは3つの路線の歴史背景や路線の性格がそれぞれ異なるからでしょう。歴史背景というのは建設された年・会社・目的などで、これらの違いが名称統一を妨げたものと思われます。それぞれの違いは下に表を用意しましたのでまずはそれをご覧ください。
・・・これを見て分かるのは、3路線の全通した年の順序です。高崎線が先に開通し、信越線、上越線の順に開通しました。乗客の混乱を避けるため、先に開通した路線の名称を変更するのは難しいことです。 「そんなの強引に統一しちゃえばいいじゃん」とお思いのかたがいるかもしれません。たしかにそれも可能だったかもしれません。しかし、ここで路線の性格の問題が出てきます。鉄道を使う人はなにも長距離だけではありません。短距離利用の人もいます。とくに都心に近い高崎線は、東京や大宮への通勤利用が多く、いきなり路線名を変えると乗客が混乱し、とんでもないことがおきかねません。 では先ほども出ましたが、なぜ「信越本線」と「高崎線」という風に名称を分けたのでしょう。それは建設会社の違いです。 で、北越鉄道が建設した区間も「信越線」に統合したのは、北越鉄道が最初から建設目的の会社だったからだと思われます。 まぁこんなところだと思います。もしかしたら水面下ですでに上越線を作る構想があったのかもしれません(確証なし)。 |
というわけで、いろいろな複雑な理由で名称統一は出来なかったものと思われます。ちなみにこの後にある新幹線が2つ出来ましたが、それらは「上越新幹線」「北陸新幹線(長野新幹線)」と、1つの名前になっています。国鉄側も在来線を名称統一したいのはやまやまだったのかもしれませんね。 |
以上で終わりですが、何度もいいますが、絶対に各鉄道会社への問い合わせはしないでください。
こんな不確実な文を書いてしまってすみませんでした。感想はメールか掲示板にお願いします。
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"旅始駅〜鉄道旅行のターミナル〜"was written by 209-0